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nikki

少年たちは何かを語る

 今日は苦情の多い日だったが、おもしろいことも幾つかあった。苦情というのは起こるべくして起こるもので、こちらの不手際によるものならばお詫びするほかないが、どうも季節の変わり目に気候と関連した何かの流れを感じ取る類の人々がいて、そうした人たちが同時に動き出したのが夏の終わりを感じさせる曇り空の今日だったのではないか、と思っている。そんな風に無理な解釈をして、説明のつかない出来事の同時性について理解しようとするが、それ自体別段意味もないのかも知れない。
 語るに値しないそんな一日だったが、ある少年がやって来た。今年中学一年生になり、あまり見かけることがなくなっていたが、今日は珍しく声をかけてきて、「こんなのがあった」と言うので見ると復刻デザインのサイダーのペットボトルを手にしていて、味が少し甘いのだと言う。古めかしいデザインのパッケージは取って付けたような印象のものだった。少年はそれだけ話して直ぐに何処かへ行ってしまったが、声変わりのさ中の子供とも大人ともどちらともつかない声がおかしく、またその成長を応援したくなるような響きを湛えていた。
 夜になりかけた頃、日中は込み合っていた窓口周辺の子どもコーナーは静かになっていた。よく来る父子が何か探している様子で、話しながら歩いていた。男の子が突然「新幹線!?」と叫んで最近設置した窓口の工作物に興味深げに眺め入った。紙工作の3両編成の新幹線は男の子に猛烈にアピールしたようで、別のスタッフが尋ねると「これは700系だ」と言っていた。僕は新幹線と言うと丸い口で額にツノがついているひかり号を思い浮かべるが、今あの車両はもう走っていないのだ。
 帰り、駅のホームで向こうから大学生らしい若者が二人、こちらの方へ歩いて来る。左側の青年が何かをよけて、僕とすれ違う時に「最近カメムシが多くないか」ともう一人に向かって晩夏の虫たちの動向について何か考えを口にしていたが、見るとホームの床には光沢のある緑色の背をしたカナブンが腹這いになっていた。カナブンがどうやって地下鉄の構内で生きてゆけるだろう・・・
 帰宅して、昨日作った野菜炒めに卵を入れて食べた。来年、尾道や鹿児島に移り住むことを夢想して現実逃避する前に、引越しでもして気分を変えてはどうかとふと思った。それは多分妙案だ(良い物件が見つかれば)。そんなことを考えたり忘れたりしながら何年か振りでゴングのフライングティーポットを聴き、夜が更けて行く。

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nikki

軽はずみな夢と台風の夜

 何だかよく分からないうちに夏の日々が過ぎて行く。現在の配属館が来年で休館予定で、そこまで勤めたら仕事をやめる、ということばかり考えている。やめた後は何をするということもない。とても危険なことだ。ただ、積もり積もったものを捨て去って身軽になりたい、というようなぼんやりしたことばかり思い描いている。仕事をやめた後は何となく一ヶ月ほど尾道に行ってぶらぶら過ごしてみたい、と思う。20代の内のことならまだ許されるかも知れないが、今の自分の年齢を考えるともうそんな後先考えない行動は危険なことだ。と思う。

 尾道には、人より遅れて卒業の決まった夏に初めて行った。この時は一泊だけで、貸し自転車に乗ってお寺を巡った。それから丁度10年経った昨年の夏、再び訪れた。港から渡船で直ぐの向島に渡り、いくつかの島を自転車で走った。昨年のことは、10年ぶりということで自分にとって何か意味のあることだったと思う。10年振りに訪れた尾道駅前の福屋(広島のデパート)の本屋は閉店間近で、とても残念なことだった。日が傾きかけた夕刻にいくつかの文庫本を手に取って開いて見た。この時は新潮文庫の『長距離走者の孤独』を買って帰った。そしてその晩から読み始めた。
 今年も、去年とほぼ同じ7月の初めに尾道に行った。今回は訳の分からない情熱を抱えて尾道から向島に渡ってサイクリング道路を走って四国の今治まで行き、山奥の温泉街にある古めかしいホテルに一泊した。翌日、バスに乗ってまた島と橋を渡り、尾道に戻ってアーケード通りをぶらぶら歩き、金物屋の軒先のつばめの巣を眺め、どん吉という定食屋で昼食(日替わり定食)を取って細々した買い物をして15時頃尾道を発った。
 尾道からそのまま東京に戻るのがどうしてもいやで、実家に寄るかどうしようか迷ったが踏ん切りもつかず、結局広島とは逆方向の倉敷に寄ってガラス細工屋でグラスなどを買って一時間ほどの短い滞在を終え、実家には立ち寄らなかったことに後ろ髪ひかれる思いで新幹線に乗った。この帰路の中、後ろ髪引かれる思いから言葉が上手いこと詞にまとまり、3年前に取り組んだ未完成の曲を仕上げることが出来たのだが、それを人前で歌ってもそれほど評価は得られないようで、好事家の満足というのは中々難しいものだ。
 自分にとっての尾道は、卒業を前にして訪れた場所、というので去年再び訪れるまでの間特別な意味を持っていたように思う。旅を積み重ねることでその意味合いは少しずつ変わっていくものかも知れないが、ともかくまた今度、9月に行きたいと考えている。7月はまだ梅雨の時期だったから、どうしても夏の暑さの残る季節に青空の下を自転車でぶらぶら走りたい。そう何度も訪れると大事にしてきた印象が薄れてしまうのではないかという気もするが、10年前と同じものは既に無いのだし、また再び行ってみることで仕事をやめた後の無思慮な計画が現実的かどうか思い知ることが出来るだろう、という気持も何となくある。また行ってみることで満足したら、軽はずみな計画も霧消することだろう。

 本当は、夏は広島市街のデルタ地帯の川沿いをぶらぶらと自転車で走りたいのだが、実家に立ち寄るのはなぜか気が引けてしまう。今年の夏は帰省しないかわりに一家揃って九州のお寺にお参りに行くことになった。そんな風にして夏の日々は過ぎて行く。今日は仕事を終えた後、若い同僚と中東の人が経営する店に行って晩飯を食べた。昔江古田にあったインド屋やスワガットのような店だ。ナンがとても美味かったが、焼き立てのナンはとても熱かった。こうして美味いものを食べて、栄養を摂るのはいいことだ。満腹になって家路についた。