松江市の小中学校図書館で、漫画『はだしのゲン』が市教委の求めに応じて閉架に移されていた、というニュースについて、今日同僚と話した。彼は今朝の朝刊で見たという。僕はネットのニュースで見た。
はだしのゲンや広島原爆についての語られ方は、無批判に同じように語られるよりは多様であって良いと思うが、しかし図書室で手に取れないようにする、という措置を取ったことには違和感を感じた。確かに、ニュースで取り上げられた場面に子供たちは衝撃を受けるだろうが(むしろ原爆の被災場面の方がはげしい印象を与えるのではないかと思うが)、子供たちは子供たちなりに文脈の中で捉えるものだろうし、そもそもこうした経緯の発端が「市民の一部から『間違った歴史認識を植え付ける』として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出された」ということで、措置としては短絡的ではないかと感じた。
時代は移り変わり、戦争を体験した人々が多く生きていた時代に実感を持って語られた「戦争はこりごりだ」という思いが、戦争を知らない人々が多く生きている現代の中で段々と語られなくなってきているのだとすれば、それは自然なことだと言うことも出来るかも知れないが、そうした中では『はだしのゲン』や「ヒロシマ」、「ナガサキ」の語られ方(思想、というのはちょっと難しく感じる)の強度は改めて確かめられるべきで、当たり前のように言われる「風化」に抗おうとするならば、その強度は戦争を知らない現代の人々自身がよりかたいものにしていく必要があるだろう。体験者の言説がなくなったときに、何の力も持たない、というのではあんまりだ。
図書館というのは、人々の「知る権利」に応えるための場所だ、と認識している。図書館は特定の考え方に偏った書籍を置くことがあってはならないし、多様な資料を提供し、それを市民が選び、手に取って開き、そこから情報を得る・必要な情報を知るための能力を得る場所である必要がある。ものごとの可否というのは多様性の中で個々人が見出すべきで、そうした要素を本質的に持っている図書館でこういうことが起こると割合ニュースになるが、学校図書館はちょっと事情が違うんかな、といろいろ思ったりした。端的に言うとこういう動きはちょっと危ないよな、と思った。…何てことを、別段何も考えずに暮らしている人間がふと思い立ったように考え出すのが、8月という季節なのだ、きっと。そしてまたいつもの、起きて食って動いて寝る日常生活に戻っていくのだ。そろそろ夜の風が涼しくなってきた。
月: 2013年8月
原付には去年の11月頃から乗っていない。7月に自賠責保険が切れたが、乗る気が無いこともないので昨日コンビニで手続きをした。店長のおじいさんは手続きの後半が不確かだったようで、店を手伝っている親戚の人が出て来て説明してくれた。今日はすぐに済んだ買い物から帰って来て、少しだけ自転車に乗った。
去年、自転車の鍵がなくなってしまい、しばらくの間乗ることが出来なくなっていた。ふとした時に鍵が見つかってやった!と思ったのも束の間、それはバイクの鍵だった。7月のある日、バイクの鍵と思っていたあの鍵はやはり自転車の鍵ではないか、と思い、試してみると案の定そうだった。行くぞオレンジ号、と走らせようとしたものの、タイヤに空気が入らず、自転車屋に持って行ったら消耗品の部品が駄目になっていたようで、店のおっさんが交換してくれた。元気になった自転車に乗って荒川まで行こうとしたがもう日暮れで、近くを流れる隅田川を見るだけで帰った。久しぶりに乗った自転車はタイヤの空気が少し緩かったが楽しかった。今日はタイヤに少し空気を入れた。自転車に乗ってどこに行くでもないが、自転車が再び乗れるようになり、気掛かりが一つなくなっていいことだ。
ところで8月になった。夏真っ盛りだ。都市の夏はアスファルトの熱がすごく、昼間は道中サウナのようだ。夏になるとザ・なつやすみバンドの出番だ。彼らは今年の夏、シングルを出した。去年出したアルバムの中の一曲「自転車」はいい曲だ。