何だかよく分からないうちに夏の日々が過ぎて行く。現在の配属館が来年で休館予定で、そこまで勤めたら仕事をやめる、ということばかり考えている。やめた後は何をするということもない。とても危険なことだ。ただ、積もり積もったものを捨て去って身軽になりたい、というようなぼんやりしたことばかり思い描いている。仕事をやめた後は何となく一ヶ月ほど尾道に行ってぶらぶら過ごしてみたい、と思う。20代の内のことならまだ許されるかも知れないが、今の自分の年齢を考えるともうそんな後先考えない行動は危険なことだ。と思う。
尾道には、人より遅れて卒業の決まった夏に初めて行った。この時は一泊だけで、貸し自転車に乗ってお寺を巡った。それから丁度10年経った昨年の夏、再び訪れた。港から渡船で直ぐの向島に渡り、いくつかの島を自転車で走った。昨年のことは、10年ぶりということで自分にとって何か意味のあることだったと思う。10年振りに訪れた尾道駅前の福屋(広島のデパート)の本屋は閉店間近で、とても残念なことだった。日が傾きかけた夕刻にいくつかの文庫本を手に取って開いて見た。この時は新潮文庫の『長距離走者の孤独』を買って帰った。そしてその晩から読み始めた。
今年も、去年とほぼ同じ7月の初めに尾道に行った。今回は訳の分からない情熱を抱えて尾道から向島に渡ってサイクリング道路を走って四国の今治まで行き、山奥の温泉街にある古めかしいホテルに一泊した。翌日、バスに乗ってまた島と橋を渡り、尾道に戻ってアーケード通りをぶらぶら歩き、金物屋の軒先のつばめの巣を眺め、どん吉という定食屋で昼食(日替わり定食)を取って細々した買い物をして15時頃尾道を発った。
尾道からそのまま東京に戻るのがどうしてもいやで、実家に寄るかどうしようか迷ったが踏ん切りもつかず、結局広島とは逆方向の倉敷に寄ってガラス細工屋でグラスなどを買って一時間ほどの短い滞在を終え、実家には立ち寄らなかったことに後ろ髪ひかれる思いで新幹線に乗った。この帰路の中、後ろ髪引かれる思いから言葉が上手いこと詞にまとまり、3年前に取り組んだ未完成の曲を仕上げることが出来たのだが、それを人前で歌ってもそれほど評価は得られないようで、好事家の満足というのは中々難しいものだ。
自分にとっての尾道は、卒業を前にして訪れた場所、というので去年再び訪れるまでの間特別な意味を持っていたように思う。旅を積み重ねることでその意味合いは少しずつ変わっていくものかも知れないが、ともかくまた今度、9月に行きたいと考えている。7月はまだ梅雨の時期だったから、どうしても夏の暑さの残る季節に青空の下を自転車でぶらぶら走りたい。そう何度も訪れると大事にしてきた印象が薄れてしまうのではないかという気もするが、10年前と同じものは既に無いのだし、また再び行ってみることで仕事をやめた後の無思慮な計画が現実的かどうか思い知ることが出来るだろう、という気持も何となくある。また行ってみることで満足したら、軽はずみな計画も霧消することだろう。
本当は、夏は広島市街のデルタ地帯の川沿いをぶらぶらと自転車で走りたいのだが、実家に立ち寄るのはなぜか気が引けてしまう。今年の夏は帰省しないかわりに一家揃って九州のお寺にお参りに行くことになった。そんな風にして夏の日々は過ぎて行く。今日は仕事を終えた後、若い同僚と中東の人が経営する店に行って晩飯を食べた。昔江古田にあったインド屋やスワガットのような店だ。ナンがとても美味かったが、焼き立てのナンはとても熱かった。こうして美味いものを食べて、栄養を摂るのはいいことだ。満腹になって家路についた。